MIAU 設立発表会講演録(1)

設立記者発表会講演「インターネット時代の政治参加について」

Movements for Internet Active Users 発起人 白田秀彰(法政大学准教授)


ミャウの理論的防波堤の白田です。みなさんでこの組織を「みゃっうみゃうに」盛り上げていただければ大変嬉しく思います。

インターネットには、古くから「言い出しっぺの法則」という慣習がありました。私は、昨年出版していただいた『インターネットの法と慣習』という本のなかで、「ネットワーク利用者の政治的組織が必要」だとか、「名前を持って責任主体として活動する人々が必要」だとか、訴えていたわけですが、まさに「言い出しっぺのお前がやれ」というようなことになりました。

ネタ組織であるロージナ茶会の総統として余生をマッタリと送りたかったのですが、若い衆が突っ走ってしまったようです。

私の著書でも指摘したところですが、ネットワークには、名前や顔を出すことを極端に恐れる雰囲気があります。もちろん、個人が特定されることが大変危険であるという現実も理解しております。とはいえ、その匿名性に固執する雰囲気が、ネットワーク利用者がネット上で仲間を募り、責任ある主体として社会に働きかけていくことを困難にしていると思っています。私は、ネットワークで名前や顔を出しても普通に生きてきました。

私はミャウに発起人として参加することで、さらに「ネットワークに名前晒し顔出しで政治的活動に関与しても普通に生きていける」ことを、身をもって示したいと思っています。そうすれば、続いて名前や顔を出しながら活動する人が増えていくのではないでしょうか。よくよく考えてみれば、民主主義の前提とはそういうものだったはずなのです。人々が安心して政治参加できないような環境で、民主主義が機能するはずがありません。

もちろん、ミャウを支えてくださる皆さんが匿名で活動されても全くかまいません。むしろ、そうした「名無しさん」たちの意見を、内容について責任を負担し、リアル社会に向けて伝える、名前と顔を持った代弁者として機能するつもりです。

仮に、私が名前や顔を出したことで、ネット上の皆さんから徹底的に叩かれて再起不能になるのであれば、それは、自分が信じて自分の存在を賭けた「ネットワーク上の善意」「民主主義の可能性」が幻想であったことを意味するのですから、それは、それでよいのだと思います。そうであるならば、もっと実効性のある他のアプローチについて考えなければならない、という貴重な教訓を得ることができるでしょう。

私は、ネットワークに集う皆さんや私たちが、民主主義を新しい形態で先に進めることができると信じています。現実世界の偉い人たちが言うように、ネットが「危険で」「犯罪の巣窟で」「悪意に満ちた場」であるなら、ミャウの活動は、ただちに敗北するでしょう。しかし、それは擁護すべきでないものを支えようとした愚かさの代償だと、私は覚悟します。

もし君たちが、自分自身の自由のために戦うこともできないというのなら ...君たちはその自由に値しない。── というのは、スタンフォード大学教授ローレンス・レッシグ先生の演説の一節です。

レッシグ先生は、我々にうったえ、我々を鼓舞し、我々を動かそうとし ...そして今、身を引いています。レッシグ先生ほどの人物であっても、EFFほど知られた組織であっても、やはり世の中を動かすことは難しかった。だから、私は、このミャウでなにか変化が起こせるか...については楽観していません。ただ、私は、この組織で、今の若い世代に、続く世代に、「ああ、こういうことをしてもいいんだ」という姿を見せたい。そして、彼らが、私の屍の上を越えていければいいのだと思っています。

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そうそう。ニコニコ動画やニコンドライフに関連して、ひろゆきさんが「圧力にはほほえみで」とか「線がはっきりわかって誰もニコニコしていないのと、線はおぼろげで見えないけどみんながニコニコしているのとどちらがよいか」というような、ニコニコ的アプローチを唱えていました。マジな対立を、サラリとかわしながら凌いでいくというあり方です。私もこのあり方については、とても共感するところがあります。

でも、とても悲しい現実なのですが、私たちを縛ろうとする権力や法や制度は、曖昧にしていると、私たちがほほえんでいるだけだと、どんどん私たちの側に入ってきて、私たちの自由を削り取っていくのです。ここに集っている皆さんなら、そのあたりの事情をよくご理解していると思います。確かにミャウのアプローチは、泥臭く見えるし、なんだかマジでかっこ悪いと思います。でも、私たちがニコニコするために、誰かがやらなければいけない汚れ仕事なんだと思います。

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私たちネットワーカーは、私たちの声を政治の場に届ける方法をもたなかったために、著作権問題のみならず、コンテンツ規制、通信放送政策等において、声の大きな人たちに、いつも譲歩させられてきました。これは、すでに私たちが敗北していることを意味しているのでしょうか?

違います。これから私たちの活動は始まるのです!

声の大きな人たちに比べて、私たちネットワーカーの意見や要望など、草むらを飛び交う蚊の羽音くらいのものでした。それにもかかわらず、私たちネットワーカーが、さまざまな新しい価値を生み出してこれたのは何故でしょう? それは、私たちの夢や希望が、テクノロジーの発展、とりわけインターネットが可能にした新しい情報流通のあり方に沿ったものだったからです。これは、私たちネットワーカーにとっては、明らかなことです。

でも、そうしたテクノロジーが可能にした新しい表現手法は、ときとして既存の法律に抵触しました。それゆえ、ネットワーク文化は、主にサブ・カルチャー、アンダーグラウンド・カルチャーとして発達してきたのです。こうしたネットワーク文化は、少なくとも私の見方では、正統文化と同等の価値をもつものですが、それを「表」の文化として取り扱おうとするとき、しばしば正統文化の側からの法律や道徳を理由とした非難をうけたのです。でも、ネットワーカーが生み出してきた表現や文化が差別される理由はありません。

私はこうした主張を長年してきたのですが、相手にされてきませんでした。何故でしょう?

新しい環境において、社会を主導するのは、その環境をよく理解する人たちであることは歴史の示すとおりです。そうであるならば、ネットワークに関する統治の問題に、ネットワーカーが関与できないことは奇妙なことです。私たちネットワーカーは、電話線を使って文字が送れるというだけの時代から、さまざまに創意工夫し、徹夜し、絶食し、感電し、半田ごてで火傷し、今日の豊かなネットワーク文化を築きあげてきたのです。

かつて、多くの先人が、ネットワークが私たちの社会を変革すると夢見ました。しかし、現実世界で声の大きい人たちは、ネットワークが現実社会の一部分として、これまでの規範に従属すべきであると主張します。そうしてネットワーク文化を、現実社会の法や道徳の観点から「悪いもの」として扱ってきたのです。法律が理由となって消えていった、いくつかのアプリケーションやサービスを思い出してみてください。それらのアプリケーションやサービスを作り出し、利用してきた人々の夢や希望は、もとより存在してはならなかったのでしょうか? 無駄だったのでょうか?

ネットワーカーのみなさん、声を挙げましょう!

もはや、私たちネットワーカーは、ばらばらの少数者ではありません。ネットワークを頼りにし、大事に思う私たちの意見こそが、ネットワークに関する法制度を導く必要があると思うのです。

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最終更新日 : 2007-10-18 21:52:31